川口の神社・仏閣・歴史

川口郵便局の近くで凱旋橋という史跡を見つけた。120年前の歴史に思いを馳せたよ。

川口郵便局の近くを歩いていたら、何やら歴史を感じさせるものを発見。
凱旋橋

場所はこちら。

住所は埼玉県川口市本町2丁目22−18です。

これは「凱旋橋」という橋の欄干の一部だそう。奥に錫杖寺が見えます。
凱旋橋

<凱旋橋跡付凱旋橋之碑> 川口市指定記念物 史跡
日露戦争終結の翌年の明治39年(1906年)5月13日に川口町(当時)出身兵士の凱旋祝賀会に際し、凱旋パレードの通過点として当時ここを流れていた錫杖寺杁用水(いりようすい)に架設された石造アーチ型の凱旋橋の遺跡です。

(史跡前のプレート(川口市教育委員会)より抜粋)

日露戦争を契機に、砲弾や機械部品などの軍需製品の製造が盛んになり、川口の近代化が大きく進みました。

凱旋橋之碑が川口神社に移設された、とあったので見に行ってきました。
凱旋橋の碑
当時の川口町から74人が日露戦争に応集し、3人が戦死したと書かれています。

碑の中には「二〇三高地」「旅順」「閉塞隊」という文字がありました。

二〇三高地と言えば、日露戦争(1904~1905)において中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順港(ロシア海軍の基地があった)をめぐって、日本とロシアの激戦地となったところ。

1980年公開の映画「二〇三高地」を見ると、その壮絶さ、悲惨さに胸が痛くなります。

閉塞隊とは旅順港の出入り口を封鎖する作戦(旅順港閉塞作戦)に従事した部隊のこと。

碑には、2回目の旅順港閉塞作戦で福井丸に乗り組み広瀬中佐とともに戦死した川口出身の海軍一等機関兵小池幸三郎について書いてあり、胸像が同じく川口神社にありました。
川口神社 胸像

この作戦以降、広瀬中佐は「軍神」としてとても有名になり、文部省唱歌になったり、日本橋に銅像が建ったそうです。ともに戦死した小池幸三郎もよく知られることとなり、wikipediaの「福井丸」のページにその名前を見ることが出来ます。

余談ですが、広瀬中佐はロシアに留学し、貴族社会と交友するほどロシア社会と深い関係を築いていました。戦死した広瀬中佐の遺体はロシア軍によって発見され、戦争中であったにもかかわらず、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い陸上の墓地に埋葬したそう。親しくしていたロシア人に銃を向けなければいけなかった心情と日本への愛国心のはざまで、いったいどんな思いだったでしょうか。

なんとなしに見つけた凱旋橋でしたが、120年前の歴史に思いを馳せることとなりました。

やっぱり平和な社会が一番いいですね。